新聞記事より

 3ヶ月だけとっている某新聞の見出し。「文学賞 異変」
 これまでの文学賞と違い、最近のものは、作家をはずし、芸能人や書店の人など、読み手が審査するようになっている。「本屋大賞」はその典型か。


 作家が主観や好みで選ぶのではなく、読み手が客観的に選ぶということで、評価できる動きだと思う。いくら良い作品を書いても(書いたつもりでも)、読まれず、売れなければ、評価されなかったということであり、判りやすい基準だ。


 作家側のコメントとしては、日本語は作家が作ってきたものだ(かなり意訳してます)、などとあるが、やや苦しい感がある。日本語を作ってきたのは作家ではなく、国民である。たとえば、最近、「ら抜き言葉」が認められてきている。この理由は、単に広まったというだけでなく、「ら」を入れた時に意味が「自発」「受身」「可能」「尊敬」と定まらないところを抜くことで「可能」に限定されるという合理性、一文字抜くコストダウン(時間、場所、体力)・・・というメリットを伴うからだろう。


 こういう変化は、言語、文学と日々向き合う人には受け入れがたいかもしれない。しかし言語は変化していくものである。それにあわせるのも作家や文学者の使命だと思う。理学系の有識者は実験結果に主張をあわせていくのに、文学系はかたくなであるのはおかしい。


 これまで、「権威」で賞が決まっていたから、綿矢りさみたいな若い才能がたくさん日陰に追いやられていたのではないかと思う。こういうのも一種の「老害」ではないかと思う。そういう悪いものはどんどん排除していくべきだ。
 なんとなく、大企業が改革に対して重い腰をなかなか上げないのに似ている気がする。


 書きながら、最初のほうに書いたことが、言いたいことと遠いなと思った。